2012年08月19日

陸前高田 廃墟に咲く花

遠野市と陸前高田市に行って来ました。


陸前高田市には、昨年も震災復興支援ボランティアとして行きました。


遠野市は、正確に言うと被災地支援の視察です。
この2月に、遠野市長である本田敏秋氏の講演を聞き、名刺交換をしました。そのとき、本田氏が、(社交辞令だと思いますが)「遠野にもぜひ遊びに来てください」とおっしゃられたので、それをきっかけに行くことにしました。

遠野というと、私のような学生時代に日本史を専攻した者には、特別な響きがあります。「遠野物語」は、柳田國男のあまりにも有名な著書で、民俗学や歴史学を学ぶ者ならかならず一度は手にします。

つい最近上映された映画「HOME愛しの座敷わらし」の主人公?座敷わらしも、「遠野物語」に登場します。

しかし、遠野といえば、今は何と言ってもカッパです。
なんたって、「カッパ捕獲許可証」が発行されているくらいですから。もちろん、しゃれです。許可証は遠野市観光協会が発行しています。

今回の遠野市訪問は、座敷わらしやカッパと会いに、ではなく、遠野市が積極的に被災地支援をおこなったから、その様子を見聞するためです。

遠野市役所に到着すると、ご多忙中にも関わらず、本田市長が迎えてくれました。その後、若い職員さんの運転する車で、総合防災センターや仮設住宅、被災地支援ボランティアネットワークNPO法人「遠野まごころネット」の事務所兼宿泊施設を視察させていただきました。


遠野市は、津波の被害はなかったので、震災直後から、市長の判断で独自に、被害の大きかった陸前高田市や大槌町などへ支援物資を運びました。

支援物資の量も半端でなく、「知り合いの店に行き、『俺だけど、棚のここからここまで全部くれ』とツケで(支援物資を)買うんです」と同行の職員さんが話してくださいました。
こうやって、総額3億円もの支援物資を運んだそうです。

人口2万人、一般会計予算規模が188億円と、たいへん小さな市で、その規模からすると、この3億円はびっくりするような金額です。市長判断でおこなった支援ですから、全額市負担でも仕方のないところですが、後日、国と交渉して、3億円いただいたそうです。

陸前高田では、昨年と同じく、住田基地に宿泊し、ボランティア活動をしました。

住田基地は、元小学校だったところを改装し、公民館として使用していましたが、震災後、ボランティアの無料宿泊施設として開放されています。雑魚寝が基本ですが、女性専用部屋があって、私はそこに泊まりました。黒板を見ると、昨年私が書いたメッセージがそのまま残っていて、感動しました。


活動は、広田半島で、ガレキ集めと分別・袋詰め、それから側溝の泥かきを行いました。

広田半島は、半島の左右両側から津波に襲われ、それがぶつかり、水柱がたったと言われています。すさまじい津波のエネルギーを物語るように、田んぼにはおびただしい数のガレキが点在した状態だったようですが、ボランティアがコツコツと片づけているところです。

人骨もまだ見つかると、ボランティアセンターの人から言われ、びっくりしましたが、実際、分別作業の最中に、人骨とおぼしき骨が一片見つかり、警察を呼びました。「あの骨は、家族の元に帰れるのかしら」とちょっぴり胸が痛みました。

短時間でしたが、陸前高田市の中心街(だったところ)も見てきました。

ガレキはかなり片付いていましたが、それでも、まだまだあちこちに山積み状態。市役所や公民館、大型スーパー、学校などは、津波直後のまま、放置されていました。

市役所の正面玄関には犠牲者供養のための壇がしつらえてあり、お盆の時期だったので、線香をあげ、手を合わせる人が絶えませんでした。玄関の奥に自動車が一台つっこんだままになっていました。

廃墟と化した街は、1年半の月日を経て、赤く錆びつき、さらにすさまじい形相になりました。


遠野市の職員さんがおっしゃっていたことですが、震災後、復興があまりに進まないので、もう沿岸部には戻れないのではないかと諦める人も出始めているそうです。

1年前とほとんど変わらない陸前高田市の中心街を見たとき、諦める人の絶望感がなんとなくわかりました。


田んぼでガレキを片づけていても、小さなものは持ち上げると、崩れてバラバラになってしまいます。


「風化が進み、最後は消えのいくのか」。そんな思いすら、感じても不思議ではない陸前高田の中心街ですが、小さな鎮魂碑が建てられ、花が植えられ、お盆のお飾りが賑々しく飾られ、ここに人の暮らしがあったことを忘れまいとする人たちの心も感じられました。


 

posted by なおみ at 14:21| 活動報告